二十世住職  金澤 一弘

 6世紀前半、継体天皇が「だんぶり長者」の徳を讃えて勅願によって創建したことに始まり、その約200年後の養老2年元正天皇の命により、行基が大日知来を自彫して再興したとされる養老山喜徳寺大日堂の六坊の一つであり、継休天皇の后になっただんぶり長者の一人娘、吉祥姫の菩提を弔った寺と伝えられる。
 平安時代に入り平泉・藤原氏の庇護を受け、中尊寺の影響により天台宗となり「養老山吉祥院」と称し、里人の進行の中心をなしていたが、藤原氏滅亡後の戦乱の中で狐狸の棲みかとなっていた。
 その後慶長8年(1603)に至り、諸国行脚のついでに訪れた角館町雲厳寺七世華岩快雪大和尚がその荒廃ぶりを嘆き、曹洞宗寺院として復興し、雲厳寺の山号をとり「瀧沢山」に改めたといわれる。
 また、鹿角3揶士の1人で、金掘り溶鉱の燃料となる薪を一手に扱い、長者となった野尻左京一族も外護の一役をなしたといわれる。

「寺宝・丈化財」
〇吉祥姫の墓碑と大いちょうの気根
〇厨子入り木造薬師如来
〇五ノ宮皇子伝説掛軸

吉祥院
吉祥院
吉祥院

〒018-5141 秋田県鹿角市八幡平字小豆沢40

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