二十五世住職 澤口 高明

 曹洞宗大本山総持寺三六門の1つ、報思山永徳寺の直末で、室町時代の応永2年(1395)、永徳寺開山道叟道愛禅師の六哲、天産嘉舜大和尚によって創建されたと伝えられる。

 当初は神峯山善勝寺と称し、南部下閉伊千徳を本拠とする土岐二郎善勝の菩提寺であった。善勝は布教のため閉伊を訪れた嘉舜の徳にうたれ、応永2年、領内沢山に一寺を建立し、師を開山に迎えて一門の菩提所とした。その後、善勝は南部家に反抗し、文亀元年(1501)桜庭家中興の祖、桜庭光康によって討たれ、名門土岐氏は減亡した。光康はこの叛乱を鎮定した功により、閉伊の十数カ村を賜り、新しく知行主となった。打ち続く戦乱に荒廃した善勝寺を、早池峰の秀峰を望む閉伊川の畔に移し、山号を瑞源山と改め、永徳寺十世黄山東菊和尚を勧請して中興の開山とした。

 寛永6年(1629)、桜庭家四代兵助光英は、父親の菩提のため、毛馬内村に一寺を建立し、善勝寺の名跡を移して義円山仁叟寺と称した。住職に同寺四世勝珊鑑重大和尚を迎えたと伝えられるが、その寺跡は明らかでない。

江戸時代となって明暦3年(1657)、桜庭兵助光英は毛馬内へ知行替えとなり、秋田・津軽の藩境を守ることになった。新領主光英は、毛馬内氏の宝珠院跡に仁叟寺を移し、累代の菩提寺とし、天和2年(1682)に波乱の生涯を閉じた。「忠讜院凱翁宗勝居士」の光英の法名にちなみ、山号を凱翁山と改め現在に至っている。

 桜庭家は、宇治川の先陣争いで有名な佐々木四郎高綱の兄三郎盛綱の子孫で、南部光行の供をして糠部に移って来た四天王の1人でもある。桜庭家累代は、殆ど盛岡に葬られ、仁叟寺にある19基の墓石が並ぶ墓地は、遺品を収めた知行所の遥拝所と言われている。

仁叟寺
仁叟寺

〒018-5334 秋田県鹿角市十和田毛馬内字番屋平26

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