二十四世住職 吉田 順一
開創 慶長元年(1596=安土桃山時代)
開基 花輪城代・大光寺左衛門正親
「寺伝」
織豊期の創建であるが南部氏とのかかわりにおいて、極めて明確な史実を持つ寺院である。即ち、南部氏の勢力が鹿角地方に定着し、本格的な支配体制づくりに入った慶長元年(1596)、初代花輪城代として入部してきた大光寺左衛門正親が、萬松寺二世喜庵太悦大和尚を開山に請し、現在の長年寺境内に創建したものである。
しかし、中野伊織(康敬・長年寺開基)が花輪城代になるに及び、その菩提寺・長年寺を建立するために、その地に建立されていた長福寺が江戸前期の延宝2年(1674)現在地に移転されたのであるが71年後の延享二年(1745)歴史に名高い川原町大火で類焼し、寛延元年十一世代に再建された後、火災に遭うこともなく、當寺二十三世俊龍代〝平成の大再建〟を無事終えて現在の令和に至る。
この開基・大光寺氏の系譜には諸説あるが、一説に南部氏20代信時の4男を始祖とするとあり、いずれにしても南部氏の族臣として南部氏の津軽経営の任に当り、三代景行の代に津軽の大光寺城に移り在地名から大光寺を名乗った武将である。
その四代にあたる正親が、津軽の豪族大浦為信の反攻に追われ、一時、比内に潜居するが天正17年(1589)大館城を預かる安東氏の重臣前田下総急死の情報を得た正親の進言で、南部氏が大館城を占拠し、一時比内地方一体を南部支配下にしたことがあり、その論功行賞として花輪城代になり、一族の菩提を弔い、人心掌握のためこの寺が建てられたものである。南部氏による花輪の町づくりの、一番はじめに建立された寺院といえよう。
また、「杉澤山」の山号が示すように、かつては百数十年を越えた老杉が立ち並んでいたが戦争のため伐採され、庫裏裏にある池泉式の大庭園はかつて青田を隔てて「平田十里一挙青し」とうたわれたように毛馬内富士などを借景とした秀庭として歴史に名を残す。
〒018-5201 秋田県鹿角市花輪字下花輪118